政治嫌いな人に政治を語れ
- 中村 彰宏

- 6 日前
- 読了時間: 4分
更新日:15 時間前
「論破」なんて、もうイラン。
我々が本当に欲しい
「最強の政治」とは?
右を見ても、
左を見ても、
マウントの取り合い。
「あいつが悪い」
「お前のここが間違っている」
「過去にこんな失言をしていた!」
国会中継も、
ニュースのコメント欄も、
SNSも。
まるで終わりのない
「粗探しゲーム」を見せられている気分になります。
自分の正義を証明するために、誰かを悪者にせなアカン。
相手を論破して、膝をつかせて、勝利宣言をする。
すると今度は、負けた側が復讐の刃を研いで、隙を見てやり返してくる。
それ、いつまでやるのでしょうか?
これが政治なのでしょうか?
私達は、そんな「足の引っ張り合い」を見るために、税金を払っているわけじゃない。
誰かが誰かに勝つショーが見たいわけでもない。
私達が見たいのは、「昨日の敵」と「今日の知恵」を出し合って、明日の問題を解決する姿。
「そんなん綺麗事や」
「みんな仲良くなんて、お花畑な空論や!」
そう笑われると思います。
政治とは戦いであり、敵を倒すのがリアリズムだと。
そうなのでしょうか?
『闘い』や『マウント』は、誰かの利に繋がることばかりです。
『誰かの為に』という想いはゼロ。
歴史を見ればそれが間違いだとすぐに分かる。
本当に国を救ったリーダーたちは、敵を「倒す」のではなく、敵を「味方にする」道を選んできてます。
たとえば、ネルソン・マンデラ。
アパルトヘイトで分断された南アフリカ。
27年も投獄されていた彼が、大統領になって選んだのは「白人への復讐」ではない。
彼は、かつて自分たちを弾圧した象徴であるラグビー代表チームのユニフォームを着て、満面の笑みで応援した。
「赦し(ゆるし)」という武器で、バラバラだった国民を一つにしたはず。
たとえば、エイブラハム・リンカーン。
国が二つに割れた南北戦争の時代。彼は、自分を散々罵倒し、ライバルだった政敵たちを、あえて主要閣僚に任命した。
「国を救うには、私より優秀な彼らの力が必要だ」と言い切りました。
これは「仲良しごっこ」やない。
自分と違う意見を取り込むことこそが、最強のチームを作る「戦略」だと知っていたのではないでしょうか?
「敵を倒す」のは、実は簡単かもしれません。
力があればできる。
でも、「敵と握手をする」には、とてつもない知性と勇気がいります。
意見が違うのは
当たり前ですよ。
人間だから、利害が対立することだってある。
でも、「違い」は「戦う理由」じゃなくて、「新しい答えを見つけるヒント」なんじゃないでしょうか?
マンデラやリンカーンが証明したのは、その可能性だと思います。
勿論、それぞれ見えない深層心理があると思います。歴史が
全て正しい訳ではありません。
しかし、対立を煽ってエネルギーを浪費する社会よりも、
対話を重ねてエネルギーを生み出す社会の方が、よっぽど賢くて、強くて、豊かだと考えます。
そろそろ、この不毛なマウント合戦に終止符を打ちたい。
相手を打ち負かす強さじゃなくて、相手を受け入れて前に進む強さを。
「論破」よりも「対話」を。
「勝利」よりも「調和」を。
我々はもう、誰かが誰かを倒す姿には飽き飽きしている。
僕らが求めているのは、誰も置き去りにしない、本当に「カッコいい政治」。
さあ、マウント取りはもう終わり。
それぞれの考えがあり、
それぞれの考えを聴く。
それぞれが主張し、
それぞれを支え合う。
大枠では「無所属」に所属する事もある意味「偏りなのかもしれませんが、
少なくとも「無」という概念は柱になる。
そもそも、人はみな違います。
生きてきた環境も体験も、今みている世界も。
だから正しさも一つではありません。
それを巡って争うのか、違いを超えて共存するのか。
もし共存する道を選ぶなら、政党自らがそういう存在でなければなりません。
自分の正しさを押し付けることなく、違いを容認し、共存し、混ざり合う。
政党がそれをできなければ、その政党が多数を取っても、その正しさが押し付けられるだけで、自由とは程遠い社会になります。
「無所属連合の存在意義」が本来の姿であると考えます。
そんなこんなで先日盛大なパーティーが開催されました🎶
内海聡代表から
「ナンデヤネン!」
と、
ツッコンで頂きました。笑

次に行こう。みんなで笑える、新しい未来へ。
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